はじめに:ニュースで耳にする「心神喪失」への疑問
「また心神喪失で無罪か…」
重大な犯罪が報道されるたび、私たちは「心神喪失」や「心神耗弱」という言葉を耳にします。そして、そのたびに「なぜ、あんなに残虐な事件を起こした人物が罰せられないのか」「精神の問題があれば、何でも許されるのか」といった、やるせない疑問や、時には怒りに似た感情を抱くことも少なくありません。
一般市民の感覚からすれば、犯した罪の重さと、それに対する法的な結論との間に、大きな隔たりがあるように感じられるのは当然のことでしょう。しかし、近代刑法の大原則には「責任なければ刑罰なし」という考え方が存在します。これは、自らの行為の善悪を判断し、その判断に従って行動を制御する能力(=責任能力)がない者に対して刑罰を科しても、それは単なる報復に過ぎず、本人の更生や社会の安全に繋がらないという、極めて重要な理念に基づいています。
この記事では、多くの人が疑問に思う「犯罪」「心神喪失」「心神耗弱」そして「心理」というキーワードを軸に、その深層を徹底的に掘り下げていきます。
単に法律の条文を解説するだけでなく、その背後にある人間の「心理」の複雑さ、そして法と心理学がどのように交錯し、人の運命を左右するのかを明らかにしていきます。この問題は、決して他人事ではありません。社会の一員として、この根源的な問いに向き合うことは、私たちがより公正で安全な社会を築く上で、不可欠な視点を与えてくれるはずです。
第1章:心神喪失と心神耗弱 ― 法の天秤が示す境界線
まず、全ての議論の基礎となる、心神喪失と心神耗弱の法的な定義とその違いを正確に理解することから始めましょう。これらは、刑法第39条に定められています。
刑法第39条
- 心神喪失者の行為は、罰しない。
- 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
条文は非常にシンプルですが、この一行一行が、被告人の運命を大きく分けることになります。

1-1. 心神喪失:責任能力が「ない」状態
心神喪失とは、「精神の障害により、事物の是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)がないか、またはその弁識に従って行動する能力(行動制御能力)がない状態」と定義されます。[1][2]
平易な言葉で言えば、以下のいずれかの状態を指します。
- 事理弁識能力の欠如:自分が行っていることが「良いこと」か「悪いこと」かを全く判断できない状態。例えば、重度の精神障害の影響で、現実と妄想の区別が全くつかず、人を殺める行為を「神のお告げを実行している」と信じ込んでいるようなケースがこれにあたります。
- 行動制御能力の欠如:自分が行っていることが悪いことだと理解はできていても、精神的な障害が原因で、その行動を思いとどまることが全くできない状態。抗いがたい衝動や幻聴・幻覚に完全に支配され、自らの意思では行動をコントロールできないケースなどが考えられます。
刑事裁判で心神喪失が認定されると、その行為は罰せられず、無罪判決が下されます。[3][4] これは、責任能力が完全に欠如しているため、その行為を法的に非難することができない、という刑法の基本理念に基づくものです。[5] ただし、心神喪失と認定されるのは極めて稀であり、平成16年度(2004年度)以前10年間の平均では年間わずか2.1名という統計もあります。[3]
1-2. 心神耗弱:責任能力が「著しく低い」状態
一方、心神耗弱とは、「精神の障害により、事理弁識能力または行動制御能力が著しく減退している状態」を指します。[1]
心神喪失との決定的な違いは、能力が「ない(欠如している)」のではなく、「著しく低い(減退している)」という点です。つまり、善悪を判断する能力や、行動をコントロールする能力が全くないわけではないものの、精神的な障害によって、その能力が健康な人と比べて著しく損なわれている状態です。[4]
この場合、責任能力は限定的ながらも存在すると見なされるため、無罪にはなりません。しかし、その限定された責任能力に鑑み、刑法第39条2項に基づき、必ず刑が減軽されます(必要的減軽)。[3][4]
1-3. 完全責任能力:法的な責任を問える状態
心神喪失でも心神耗弱でもないと判断された場合、その人は「完全責任能力」を有するとされます。[5] もちろん、「精神機能に全く問題がない」という意味ではなく、あくまで刑事責任を問う上で十分な事理弁識能力と行動制御能力があった、という意味での「完全」です。[5] この場合、通常の刑事手続きに従って、その罪に応じた刑罰が科されることになります。
第2章:責任能力の判断基準 ― 「生物学的要素」と「心理学的要素」の交錯
では、裁判所は具体的にどのような基準で、一人の人間が心神喪失、心神耗弱、あるいは完全責任能力のいずれの状態にあったのかを判断するのでしょうか。その判断は、単に「精神病だから」といった単純なものではなく、「生物学的要素」と「心理学的要素」という二つの側面から、総合的に行われます。[6]
この判断方法は「混合的方法」と呼ばれ、日本の判例・実務で確立されています。[6]

2-1. 生物学的要素:精神の障害の有無
まず判断の前提となるのが生物学的要素、すなわち「精神の障害」の存在です。[7] これは、医学的な診断名が付くかどうかが一つの指標となります。
ただし、重要なのは、これらの診断名がつけば直ちに心神喪失や心神耗弱になるわけではない、という点です。[3][9] 例えば、統合失調症に罹患していたとしても、それだけで責任能力が否定されるわけではありません。[3] あくまで、この「精神の障害」が、次の「心理学的要素」にどう影響したかが問われるのです。
2-2. 心理学的要素:犯行への影響度
心理学的要素とは、前述した「事理弁識能力」と「行動制御能力」が、精神の障害によってどの程度影響を受けたかを評価するものです。[7][10] これこそが、責任能力判断の核心部分です。
- 事理弁識能力:行為の違法性を認識し、その意味を理解する能力。
- 行動制御能力:その認識に従って、自らの行動をコントロールする能力。
鑑定や裁判では、この二つの能力が、犯行当時に「欠如していた(心神喪失)」のか、「著しく減退していた(心神耗弱)」のか、それとも「存在した(完全責任能力)」のかが徹底的に検証されます。
第3章:精神鑑定の深層 ― 心理学は「心」をどう測るのか
責任能力の判断において、裁判官や裁判員が専門的な知見を得るために行われるのが精神鑑定です。これは、精神科医や臨床心理士などの専門家が、被告人の精神状態を医学的・心理学的に評価し、裁判所に報告する手続きです。[9][11]
精神鑑定は、決して犯人を救済するためだけに行われるものではありません。[12] 法の適正な適用と、事案の真相解明のために不可欠なプロセスなのです。

3-1. 精神鑑定のプロセス:いつ、誰が、どのように行うのか
精神鑑定は、捜査段階と公判段階で行われることがあります。[5]
- 起訴前鑑定:検察官が起訴・不起訴を判断するために請求します。被疑者を精神科病院などに「鑑定留置」し、2~3ヶ月かけてじっくりと鑑定が行われることが多いです。[4]
- 起訴後鑑定(職権鑑定):起訴後に、弁護側の請求などに基づき、裁判所が職権で命じる鑑定です。[4]
鑑定人には精神科医が選任されるのが一般的ですが、その過程では臨床心理士による心理テストなども重要な役割を果たします。鑑定では、主に以下のような多角的な調査が行われます。
- 精神医学的診察:鑑定人による複数回の面接。生育歴、職歴、病歴、そして犯行に至るまでの経緯などを詳細に聴取します。
- 心理検査(心理テスト):知能検査や人格検査など、客観的な指標を用いて被告人の心理的特性を分析します。[12][13]
- 関係者からの聴取:家族、知人、同僚などから、犯行前の被告人の様子や生活状況を聞き取ります。
- 客観的資料の検討:捜査資料(供述調書、実況見分調書など)、医療記録、学校の成績表など、あらゆる客観的資料を精査します。
3-2. 心理検査の役割:心の内面を映し出す鏡
精神鑑定において、心理検査は被告人の内面を客観的に評価するための重要なツールです。様々な種類の検査が、目的に応じて使い分けられます。[14]
- 知能検査:
- 人格検査:
- 投影法
- 質問紙法
- 認知機能検査:
- ベンダー・ゲシュタルト・テスト:簡単な図形を模写してもらい、脳の器質的な障害の有無や認知機能の成熟度を評価します。[14]
これらの心理検査の結果は、単独で診断を下すものではなく、あくまで面接や行動観察、客観的資料と統合して、被告人の精神状態を総合的に理解するために用いられます。
3-3. 鑑定における7つの着眼点
近年の裁判員裁判の導入に伴い、精神鑑定のあり方も変化しています。専門家が「心神喪失相当」といった結論を直接的に述べるのではなく、裁判員にも理解できるよう、判断材料を分かりやすく提供することが重視されるようになりました。[11]
その中で、責任能力判断の際に特に重要とされるのが、以下の「7つの着眼点」です。[16] これらは、精神障害が犯行にどのように影響したかを具体的に評価するための視点です。
- 犯行前の病状:犯行に至る前に、どのような精神症状(妄想、幻覚など)が存在したか。
- 犯行前の生活状態:症状が日常生活にどの程度影響を与えていたか。規則正しい生活が送れていたか、引きこもりがちだったかなど。
- 動機の了解可能性/不能性:犯行の動機が、精神障害に由来するものか、あるいは健常者にも理解可能な感情(怨恨、金銭トラブルなど)に基づくものか。[16] 妄想に支配された動機は「了解不能」と評価されやすくなります。
- 犯行の計画性:事前に凶器を準備したり、逃走経路を考えたりするなど、計画的な行動があったか。計画性があるからといって直ちに責任能力が肯定されるわけではありませんが、重要な判断要素となります。
- 犯行態様の合理性:犯行の手段や方法が、目的に対して合理的であったか。場当たり的で支離滅裂な行動は、症状の影響をうかがわせます。
- 犯行後の自己防御・隠蔽工作:証拠を隠したり、逃走したり、嘘の供述をしたりする行動があったか。これは、自己の行為が悪いことだと認識していた(事理弁識能力があった)可能性を示唆します。
- 犯行後の病状:犯行後に症状がどのように変化したか。犯行によって妄想が一時的に解消されるなどの変化が見られることもあります。
鑑定人は、これらの着眼点について一つ一つ詳細な分析を行い、精神医学的・心理学的見地からの意見を述べます。最終的な法的判断は、これらの専門的意見を重要な参考にしつつも、全ての証拠を総合して裁判官・裁判員が行うのです。[6]
第4章:「詐病」という名の欺瞞 ― 専門家は見抜けるのか?
心神喪失や心神耗弱が争われる事件で、必ずと言っていいほど持ち上がるのが「詐病(さびょう)」、つまり刑罰を逃れるために意図的に精神疾患を装っているのではないか、という疑惑です。[17]
「記憶にないと言えば済むのか」「統合失調症のフリをしているだけではないか」といった疑念は、多くの人が抱く自然な感情でしょう。果たして、精神鑑定の専門家は、この巧妙な嘘を見抜くことができるのでしょうか。
結論から言えば、専門家は多くの場合、詐病を見抜くことが可能です。[12][17] 精神鑑定は、被告人の自己申告だけに頼っているわけではなく、多角的かつ客観的な手法でその言動の信憑性を検証するプロセスを含んでいるからです。

4-1. 詐病を見抜くための視点
専門家が詐病を疑い、見抜く際には、以下のような点に注目します。
- 症状の非典型性:訴える症状が、既知の精神疾患の典型的な症状や経過と矛盾していないか。例えば、幻聴の内容が都合よく変化したり、誇張が過ぎたりする場合、詐病が疑われます。本物の精神病理には、一貫した論理や特徴が見られることが多いのです。
- 客観的証拠との矛盾:本人の供述が、友人や家族の証言、日記、SNSの投稿といった客観的な情報と食い違っていないか。事件前に活発に活動していたにもかかわらず、逮捕後急に重篤な症状を訴え始めるような場合は、慎重な検討が必要です。
- 心理検査の結果:前述のMMPIのように、質問紙法の中には「嘘」や「自分をよく見せようとする傾向」を測る妥当性尺度が組み込まれているものがあります。[13] これにより、回答の信頼性を客観的に評価できます。また、ロールシャッハ・テストなどでは、意図的に奇異な反応をしようとしても、その反応パターン全体の一貫性のなさから、不自然さが露呈することがあります。
- 面接や行動観察での不一致:面接のたびに症状の訴えが変わる、あるいは注意を払われていないと感じると症状が消えるなど、状況による言動の不一致も重要な手がかりです。また、演技的な振る舞いや、質問に対する過剰な回避なども観察されます。
- 脳機能検査など:近年では、MRIやfMRI(機能的磁気共鳴画像法)といった脳画像検査も補助的に用いられることがあります。[12] これらは決定的な証拠にはなりませんが、脳の器質的な異常の有無などを確認する上で参考になります。
神戸市で高校生が殺害された事件では、被告人が「幻聴や妄想があった」と統合失調症の特徴を主張しましたが、担当医は会話がスムーズに成立することや、事件後に治療なく改善したことの矛盾から「詐病の可能性が非常に高い」と指摘し、結果として懲役18年という重い判決が下されました。[12]
このように、精神鑑定は単なる問診ではなく、科学的・客観的な手法を駆使した総合的な評価であり、巧妙に装われた嘘を見破るための仕組みが備わっているのです。
第5章:残された被害者 ― 法と現実の狭間で
心神喪失を理由に加害者が無罪となった時、最も困難な状況に置かれるのは、言うまでもなく犯罪の被害者やその遺族です。愛する人の命を奪われ、あるいは心身に深い傷を負わされたにもかかわらず、加害者が法的に罰せられないという現実は、到底受け入れがたいものでしょう。
「加害者が罰せられないのであれば、この怒りや悲しみはどこへ向けたらいいのか」
「社会復帰した加害者が、また同じような事件を起こすのではないか」
こうした不安や憤りは、被害者にとってあまりにも過酷な二次被害(セカンドレイプならぬセカンド被害)となり得ます。
5-1. 医療観察法:社会復帰と再犯防止の試み
こうした問題意識や、2001年に発生した附属池田小事件などを契機として、2005年に施行されたのが「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律(医療観察法)」です。[1]
この法律は、心神喪失や心神耗弱を理由に不起訴または無罪・執行猶予付き判決となった人のうち、殺人、放火、強盗、強制性交等などの重大な他害行為を行った者を対象としています。[1]
対象者は、裁判官、精神科医(精神保健審判員)、精神保健福祉士(精神保健参与員)からなる合議体による審判を経て、専門の医療機関への入院または通院による処遇が決定されます。[1] ここでの目的は、刑罰ではなく、手厚い専門的な医療を提供し、病状を改善させることで、社会復気と再犯防止を図ることにあります。
入院期間に上限はありませんが、6ヶ月ごとに処遇の継続が必要かどうかが裁判所によって審査されます。[3] 退院後も、原則3年間は指定された医療機関への通院が義務付けられ、保護観察所の社会復帰調整官が生活環境の調整などの支援を行います。[3]
この制度によって、心神喪失で無罪になったからといって、直ちに野放しになるわけではなく、社会の安全確保と対象者の治療・社会復帰を両立させるための仕組みが作られているのです。
5-2. 民事上の損害賠償と残された課題
刑事裁判で無罪になっても、民事上の責任が全て免除されるわけではありません。しかし、ここにも高い壁が存在します。民法第713条は、心神喪失中の行為については損害賠償責任を負わないと定めています。[3][6]
ただし、その監督義務者(例えば親権者など)が責任を問われる場合があります。[18] また、心神耗弱の場合は責任能力が認められるため、本人に対して損害賠償請求が可能なケースもあります。[6]
しかし、加害者に支払い能力がない場合も多く、被害者が十分な補償を得るのは依然として困難な状況です。国による犯罪被害者等給付金支給制度もありますが、全ての損害を補填するものではありません。[19]
被害者支援の観点からは、加害者が医療観察法の処遇を終えて社会復帰する際の丁寧な情報提供や、長期的な精神的ケア、そして経済的支援のさらなる充実が、今後の重要な課題と言えるでしょう。

結論:罰することと、理解し支えることの狭間で
犯罪における心神喪失と心神耗弱の問題は、法と心理学、そして社会倫理が複雑に絡み合う、極めて難解なテーマです。
犯した罪に対しては、相応の罰が与えられるべきだ、という応報感情は、人間として自然なものです。しかし、同時に私たちの社会は、責任を問えない状態にある人々を一方的に断罪するのではなく、治療し、社会復帰を支えるという道を選んできました。それは、それが長期的に見て、より安全で、より人道的な社会に繋がると信じているからです。
精神鑑定というプロセスは、その人の「心」という、目に見えず、数値化も難しい領域に、科学の光を当てようとする試みです。心理学の知見を総動員しても、人の心を100%完全に解明することはできないかもしれません。鑑定が間違う可能性もゼロではありません。
しかし、私たちは「わからないから」といって思考を停止するのではなく、法と医学、心理学の専門家たちが、いかに真摯に、そして科学的に、個々の事案と向き合っているかを知ることが重要です。そして、加害者の処遇だけでなく、置き去りにされがちな被害者の心の痛みにも、社会全体で寄り添い続ける必要があります。
心神喪失という問題は、私たちに問いかけます。
「責任とは何か」
「罰とは何か」
そして、「人が人を裁くとは、どういうことなのか」と。
この問いに、唯一絶対の正解はありません。だからこそ、私たちはこの問題について学び、考え、議論し続ける必要があるのです。それが、悲劇的な事件を一つでも減らし、誰もが安心して暮らせる社会を築くための、第一歩となるはずです。
【参考ウェブサイト】
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